必要である事。

高萩の製紙工場

■壮大な機能美と戯れる

自分にとって工場へ魅力を感じる大切な要素の1つとして《機能美》と云うポイントはとても大きく、大小様々と聳える蒸留塔や高炉も、構内を縦横に走り複雑な陰影を形作る配管も、表情豊かに佇むタンク類も、その溢れるばかりに個性豊かな造形全てが、各々目的に則し計算された結果がその姿へ表れている事に特に強く惹かれる。
春先に行ったクルーザーを借り切っての京浜工業地帯巡りを控えての打ち合せで何度と話題に出た『日本文化私観』、その中で坂口安吾は《美は、特に美を意識してなされたところからは生れてこない。》と云う視点から工場に就いてこう語る。
《なぜ、かくも美しいか。ここには、美しくするために加工した美しさが、一切ない。美というものの立場から附加えた一本の柱も鋼鉄もなく、美しくないという理由によって取去った一本の柱も鋼鉄もない。ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれた。そうして、不要なる物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形が出来上っているのである。それは、それ自身に似る外には、他の何物にも似ていない形である。必要によって柱は遠慮なく歪められ、鋼鉄はデコボコに張りめぐらされ、レールは突然頭上から飛出してくる。すべては、ただ、必要ということだ。》

他人の手によるプラントさえ一目でその性能を推察出来る設計士達が、規模と効率と安全性を考慮し各々の個性を通じ造り上げる剥き出しの機械が、どんなモダン建造物にも引けを取らない繊細且つ力強い世界を獲得していると云う事に嬉しくなる。
映画やテレビで眼にする空想の世界がフィクションとして創り出す数多の舞台にも負けない素晴らしい情景が、実は自分が過ごしている日常の直ぐ脇に広がっていると云う事実は、どんな時も心の中へ絶えず胸躍る躍動感を与えてくれる。
資源の乏しいこの国を維持する為に欠かせない大量の産業製品を生み出し続ける場所、ささやかに繰り返し過ぎていく自分の生活を陰で支える礎となる場所、その空間が日々見せる輝きにこれからも静かに憧れ続けるだろう。

(写真/夕陽に照らされるコンビナート)